ちょっといい話

イギリスで活躍中の岡 豊さんを紹介します。

ACE FACE

YUTAKA OKA

エセックス大学で経済学を学んだ後、岡 豊さんは故郷である日本で暮らしていたが、現在イギリスに戻っている。
40代のとき再び活動的になった。防衛関連の航空宇宙業界で働いていたが、ファッション業界の仕事をするために辞めた。

そして、かねてからずっと欲しかったHarleyDavidson Sportsterを購入していたが、クラッシックなTriumphの方がより好きだと結論に達した。彼は3年前ブランドハッチの歴史的なレースミーティングでそれを見つけた後、Tiger110を購入し。「Tiger110は私が生まれた年と同じ1961年モデルなんだ。だからそのバイクに一目惚れしたんだ。妻の明恵は、バイクに対して最初あまり熱心でなかったが興味をもってくれた。私はクラシックバイクについて何も知らなかったが、今ではたくさんのことを知っている。」
 彼は、エースカフェでは馴染みの友人『レザーガール』ひろこさんに薦められ、ロンドン北部にある英国クラッシックのスペシャリストVictory Motorcycleでお世話になった。彼女のバイクTriumph Speed Twinもいつもきちんと整備されている。

 彼のT110 のシリンダーヘッドは、壊れやすい合金の代わりに『5フィン』の鉄製が使用されている。Tiger110のタンクは、大好きなオレンジアイボリーにペイントスキームしている。
 彼は、Ace Cafeからほど近いWembleyに住んで、1991年式のBMW GS1000にも乗っているAce Cafeで友人ができた。彼らはみんな良い人たちなんだ。」と彼は言う。

 



ACE CAFE店内の様子  岡さんに案内していただきました。ステッカーやバッジ、Tシャツや革ジャン、イギリスのバイカーが挙って身に着けてるのでしょう。ライダースジャケットにワッペンを沢山縫い付けてTriumphやDUCATI、自分なりに改造したバイクでCAFEからCAFEへと昔はレースしてたんでしょうね。ワッペンやステッカー何種類か買って帰りました。







ACE CAFE 店内外

ACE Cafe London Vintage Cafe Racers & People


「 ハングリー ・ ブルースを聞かせよう 」

RIDING SPORT 1983年  2月号 寄稿 後藤新弥


スーパークロスを見て「あれは派手すぎる」と酷評した仲間がいた。バイク乗りなんて、みんな(いい意味での)根クラ族である。鳴り物入りのスーパークロスが、どこかフジテレビの「芸能人紅白運動会」的で、明るすぎるように感じられたのかも知れない。
僕はそうは思わない。
今回は残念ながら来日しなかったが、伝説上のライダー、ボブ・ハンナの話を聞いたら、だれだってグッと来るに違いない。ハンナは空中追い抜きの大ワザや、後ろ向きになるほどの大カウンターで「スーパークロス男」の名を欲しいままにした全米スポーツ界ののエースだけれど、やつはネバダ州境の死の谷へたった一人ででかけて秘密練習をやると言う。

 

森ハゲこと森岡進君からの股聞きだけど、ゾクッとする話だ。「オレのテクニックはオレだけのものだ。本番以外では決してほかのやつに見せたくない」 生意気小僧だとののしられることもあるハンナだが、そのプロ根性は、たとえば日本の剣豪、あるいは刀鍛冶に通じるものがある。バンにモトクロッサーを1台積み込み、ガソリンとパンとバドワイザーのビールを助手席に放り込んで、ハンナはたった一人で、荒涼としたデス・バレー(西部劇によく出てくる)に乗り入れる。そして、一日中、時には車の中で寝て何日もかけて、 デス・バレーに孤独な エキゾースト・ノートを響かせるのだ。トレール(タイヤの跡)がヘビのように不気味にくねり、交差する。万が一ケガをしても、救けてくれる者もいない。 赤っちゃけた岸壁にこだまする2ストのサウンドを唯一の友として、ハンナは「これでもか、これでもか」と人知れぬチャレンジを続けていく。そして自宅でのボディー・トレーニング。

 

「暗いわねェ」ハンナの話を、好きな女にしたら、姉のような目で僕を見た。女にはわからないかもしれないけど、バイク乗りってみんなそんな経験がある。僕は本田の総本山のある和光市(埼玉県)で育った。すぐ近くの荒川の河原に、同社のテスト・コースがあって、そのときは、格好の「モトクロスごっこ」のフィールドだった。金がなくて、とても最新のモトクロッサーなど買えない。ブーツすら買えなかった。バーゲンのスキー用手袋にスキー用ゴーグルをはめ、ゴム長靴を履いて、保安部品を全部はずしたスズキ・ハスラー(50ccのストリート・スクランブラー)に自宅から乗っていく。しかし公道上では白バイやパトカーに出会うので、ウンコラと押していく時もあった。浅間火山レース出場のために、YA1をリヤカーに積んで山道を行く北野晶男(汚れた英雄)の気分だった。
  そして、下手は下手なりに、腕がパンパンにはれて、小便のためにチャックを開けることすら出来なくなるまで、特訓するのである。あの頃は、うまくなりたいとか、レースでヒーローになりたいという具体的な目標があったわけでじゃない。ただ何か一つのことに血眼(ちまなこ)になって、燃えていたかったのだ。貧乏なら貧乏のままに、充実感があった。
 この頃は、乗るバイクも広がった。XR250も手に入ったし、刀もきた。でも、僕が 一番「いいぜ!」と、一人でに笑いがでてしまうのは、初期型のオンボロTL125で、目茶苦茶に荒野を走り回るときだ。

 

 好きが昂じて、去年、清里高原にバイクランドを買った。猫の額ほどの荒地だけど、 小屋を建てて、CT110やTLをぶっ込んでおいて、気が向いた時にぶっ飛んでいっては(隣人の敷き地もお構いなく)雑草なぎ倒して乗り回す。ガケを駆け上がり、ヘマッて脳天からひっくり返り、水道の配水管をぶちこわして、近所のペンションの経営者から大目玉を食う。でも、一人でそうやって夢中になっていると、心が洗われるような気がするのだ。
「そうしまい」と思っても、少し暮らしが人並になってくると、つい高価なバイクを買っちまう。高いバイクを手にすれば、必然的に、河原で飛ばした頃の一途な燃え上がり、あるいは晶男やハンナのつかれたような思い込みのエネルギーを失ってくる。自分で燃えず、バイクの価値にすがって生きたくなる。それが人情だ。そんな人情には、僕は流されたくない。抵抗したい。
  僕の2百坪のバイクランドのそばにテニスコートがある。コートの横が、3メートルのほぼ垂直の崖だ。 何度やっても登れない。「コンチク生」何度かの失敗の後で、僕は(不思議にも)本当に涙を流す。心から悔しくて、へたくそな自分が情けない。
「こんなことで、どうする!」「やるんだ。できるまでやるんだ!」強烈に魂が燃えてきて、日暮れまで 乗り続けてしまう。
 高原の夕方は、寒い。鼻水で鼻や口がかぶれてヒリつく。スリ傷が痛い。そして、そんな後で一人で作る即席ラーメンやゾウニの味は、この上なく美味いのだ。腹を満たした後で、ポンコツのTLのタンクをなぜてやって「がんばったな。この次こそ、きっとあのガケをやっつけてやるからな」と、言ってみる。 キザ? だれも見てないんだ。キザもヘチマもない。バイク乗りならだれだって、似たようなことをするものだ。


 ハンナの響かせる、一人ぼっちのエグゾースト・ノートや、北野晶男のYA1の響きがヒューという木枯らしの中に聞こえてくるのは、そんな時である。プロ・リンク・サスや、12Vランプのついた最新のダート・バイクでは、とてもこういう飢餓感(貧乏感)と 充実感の入りまじった、ライダーだけのブルースは味わえない。
 僕にとって、ぶっかけがかったTLで遊ぶのは、想い出への回帰ではない。「いま」生きて
いる僕の人生の、現実の起点なのだ。ハンナのクソ魂、夕陽に向かって、「バカヤローォ!」だ。